≪理解出来ることと出来ないことの違い≫

   ≪人の性格と思考の枠組み≫

 生活をしていると、いろいろな人と出会います。最近人は一見個性化が進んだようにも見える。私が近年とても気になっている言葉がある。最近はあまり使われなくはなったが、この言葉が世に出てから、人々の意識に大きな変化が生まれたのではないかと考えている。その言葉は、「自分なりには~」という表現である。

 昔、小・中学生の頃、学期末に渡される「通知簿」。普段の勉強をよしとしなかった生活を送っていた私。必然的に「恐怖の瞬間」でもある。誰もが知る、学業の5段階評価や10段階評価である。いつの日からか知りませんが、どうやらこの評価の考え方が変わったようです。この段階評価には、成績の自己判断が目的でしょうが、この通信簿の果たしていた役割に気づく者は少ないのであろう。それは、社会での自分の位置する(ある意味努力や能力など)絶対評価の意識づけでしょう。大人社会では大なり小なりの、また、ある意味手を変え品を変えての評価がなされています。それは他者との絶対評価というより、むしろ理不尽な評価の方が多いのが実態です。相対的段階評価で教育されてきた世代は、割と打たれ強いのですが、最近はそうではありません。精神的な病の方が増えていることも無関係ではないのではと感じることもしばしばあります。

 意識は、人の心を作ります。人の心は多種の経験を踏み台に性格を作り出します。人の性格は、決められたような考え方を作り出します。この性格が作り出す考え方はいろいろな特徴を持ちます。この特徴を構成する要素が「思考の枠組み」より作り出されます。この思考の枠組みが作り出す力学的エネルギーを、人は気と言っています。

  思考の枠組みは人の潜在意識の枠組みを示しており、人の置かれた環境ごとに対応する思考を、潜在意識とも心理学では名付けているようです。また、思考の枠組みはより繊細な波動の影響も受けています。心理学ではこの意識を変性意識と名付けているようですね。波動の世界では、よりこまやかな領域が段階的に存在しております。当然、波動的にはその段階ごとに異なってきますが、この段階的波動の特徴としては、下位の段階から上位の段階の波動の理解は不可能ですが、上位から下位の波動の理解は写真を見るように明らかになります。波動の段階的な特徴は言葉での表現を無意味にもします。これらの波動の段階を私は「気のステージ」と名づけています。初期段階の気功術では、ここで表現したような心理的特徴の理解は分かりにくいかも知れませんが、二段階目の気のステージからは、自らの考え方を含めた「我」の除去が必要不可欠となります。当方には他流派の経験者などから、気の操作だけの習得を希望される方が多いのですが、このような方にお教えすることはとても困難になることは明白でしょう。まして、一般人が、超能力まがいの能力を得ようと安易に考えることは、「邪気そのもの」とでも言える軽薄さでしょう。人に役立つ能力は、地道で科学的思考が求められることは気功術においても言うまでもありません。

 

   ≪理解の深さ≫

 私は、私独自の理論を基にした整体術や気功術を長年教えてきました。自分自身の理論や技術は毎日、毎日驚くほど進むのですが、残念なことに、生徒の理解スピードが遅く、私の技術の進化について来れないことが悩みなのです。

 などと言うと「何言ってんだ、教え方が悪いのだろう?」と、普通の人は思いますよね。

 でもどうやら、私の考え(理論や技術の基本)は、あまりに現代科学や医学の常識(基礎理論や周辺理論)からかけ離れ過ぎていることと、現代教育の特性が原因にあるようなのです。自分的には、むしろ小学生でも理解が可能で、誰でも容易に習得できるような、簡単明瞭な教え方だと思っているのですがね。私の教え方が悪いのか、生徒の皆さんの頭が悪いのか、いや、やはり現代教育の問題でしょうか。

 簡単に表現しますとウワズミ教育とでも言いますか、いわば応用力が無さ過ぎるようですよね。もう少ししつこく表現しますと、「足し算・引き算はそれなりに出来ても?」

 例えば何か国民的な問題が起きると、いつもテレビ越しで皆さんが気を揉んだり、イライラすることによく見られる現象も「足し算・引き算が出来ても?」なんですね。お金がいくらあっても、住んでいる人が喜ぶプランや結果を出せない一流大学卒の人々。

 私が教える整体術も気功術も、基本的スタンスは観察と分析・解析とその結なのです。一般的には初めに誰かの基本的な考えがあったり、決まった技法があって、技術が問題を解決していく的な考え方が主流ですね。つまり、誰かのアミダシタ考えを(技術)を当てはめることが技術であったり、当てはめることが理論であったりします。

 しかし私の考えは、最初にその人に何が起きているのか、そのメカニズムはどのようにして生まれるのか、問題がある人と無い人との体型的な違いはあるのか無いのか、その違いはどのような身体の使い方で生まれるのか、その人の身体の問題的変異は、安全に解決するにはどうしたら良いのか、医学的にはどのような理解と処方をするのか、一般的手技療法ではどう理解しどう対処するのか、自分の考えとどちらが安全で有効的なのか・・・・などと止めども無い永遠の疑問の発生と、その正しい処理が瞬時に求められます。つまり、施術が続く限り様々な疑問とその処理に、追われ続けるのが私の技術の特徴なのです。

 はい、とても大変ですがその分、比類なき大きなやりがいも生まれます。

 整体術は一般的に裏武道の流れを汲むと言われていますから、

「パキポキ・パキポキ~ギャァ~以上、お疲れ様!」みたいな理解をされている方も多いですよね、実は私にも出来るのですが施術としては使用しません。

 なぜ使わないのか?

 私どもの利用者でも、その技術の方が安全で有効であれば使うかも知れませんが、その確信がなければ使う理由が見つかりません。

 飽くなき技術追求をされておられる手技療法家の方であれば、誰もがより有効的な技術を常に求め欲しがることでしょう。

 しかし、私の技術のようにとても複雑で、しかもその人の身体に合わせる技術は当然のこととして、さらに毎回の変化やその違いにも対応しなければいけない技術には、最初から及び腰になるのでしょうかね。でも、人の身体は、毎回微妙に違うし,有効的な技術を使えば使うほど、その場で確実に身体が変化してくることは、むしろ自然なことです。ですから、場合によっては毎回使用していく技術が微妙に変化していくのです。確かにこれを理解するのは、面倒ですね。それは充分理解が出来るのですが、身体はとても複雑なのです。たとえ民間療法といわれる手技療法といえども奥行きに限りはありません。毎回、正確な結果を引き出すことが出来る領域にある手技療法であれば、科学技術として見ても実は簡単ではありません。だからこそ、面白いのですがね。

 

 ですが、実際に学ぼうとすると、自分の過去に蓄積した知識の情報の枠の中に収めようとするのです。決して「学ぼうとすることに対しての自分の知識が十分か足りないか」などを、考える人は極めて少ないのです。このような思考の仕方を私は「経験的思考」と呼んでいますが、その真逆の思考が求められてくるのです。

 つまり、私の教える整体術や気功術は、このいかなる経験的思考をもってしても理解が不可能なのですね。

 

 

 

≪知識が惑わす不正確な理解(誤認)≫

 知識というものは、使い方次第でとても便利なものです。しかし、使い方が間違っていたり、ベースとなる基本理論の範囲を超えてしまうと、時には頑固な強情者か偏屈者などに変わってしまいます。このような状況から生まれた発想やメカニズムには、とても指示し難い不要の理論が生まれます。それはたとえ多くの人々に評価され指示されていたとしても変わりません。そのことはいずれ歴史が証明することですが、現実の関係者の中には、間違いでは済まされない人もおりますね。

 気功術の世界において、上記で触れた≪理解の深さ≫に関して、正確な理解レベルまでにたどり着くには、多分、信じ難い量の文字や文章を必要とするのでしょう。しかし、この題目に選んだように、世間一般的な常識を覆すような理論には,既成の知識が邪魔をしてしまい、正しい理解を難しくしてしまいます。

 常識という言葉に人は弱いです。また、科学という言葉にも無抵抗になりがちです。しかし、これらの常識や科学という言語を、包み込む言葉が「事実」なのですね。私の整体術でも気功術でも、すべてのスタートとゴールは、ともに「事実」ということになります。つまり、この事実を無視したり否定したりして科学は存在し得ないと、私は考えるのです。どんなに優れた気功術も整体術でも、レベルが上がれば上がるほど「超能力」という言葉からは離れます。「超努力であり、超本気であり、超思考でもあり・・・・」と、安易な人が、すぐに逃げ出すことを地道に続けるには、個人の利害(家族を含む利害)から離れることも重要です。社会が求めていることを、社会的に役立つことを、人々の悩みに、人々の苦しみに心が動かない人には気のステージを超えることは不可能です。