≪誰も知らなかった気の秘密≫

~習っている時は出来なかった気の操作~

 ≪手技療法家の気功術≫

 皆さんは「気功とか気功術」と聞いて、どのような理解をしていますか。私が最初に抱いたイメージは「これ本物、偽物」という、疑問でした。次に「使い道があるの、ないの」と言う、気功の有用性でした。三番目に「どうやってやるのだろうか」と、一歩踏み込んだ疑問です。私の四番目の疑問は、本当に気功の世界があるのであれば、気功が関わる範囲が知りたいと、さらに一歩進んだ具体的な活用に対する興味でしょうか。その中には気功で出来ることと出来ないことというような、技術的なレベルの問題や、構成要素などだったと思います。

 話は少し変わりますが、TV番組の「気功を最新の科学がすべてを解明する?」みたいな番組がありましたが、いただけませんよね。ことの成り行きパターンも「お決まりなこと」は知っていても、ついつい見てしまうのですが番組が見終わる度に感じる苛立ちと、憤慨。「水戸黄門」とは違う、お決まりの不満。

 いやぁ~何回見ても適当ですよね。科学の「科」の字もない。「気功や気功術」などと言うと一見、インチキをイメージしてしまう。もっとも、私もそうでしたが、どうしても見えないものは信じたくないですよね。見えない不安と申しますか、見えない恐怖、知らないことへの違和感、挙げればきりがない。そんなとき「科学とか学問的」などと言いますと、飛びついてしまいそうになる心理。でもね、学者だって所詮人の子ですよ。書籍を見ますと結構平気で嘘を述べていますね。

 気のことを書いた書籍などでもそうですが、まず「科学的」などと記載されていたり、使用している時は、私は基本的にはインチキと見ますね。

 なぜか?

 至って簡単明瞭、正しいことがないからですね。

 経験から、科学を知らない科学者と理解してほぼ間違いがない。私は、気功が出来ないいかなる人間が、何を言っても正しいとは思えない。その領域を様々な形で習得し、その汎用性や標準化のために科学的要素を考慮するのは良い。「事件は現場で起きている」という番組を見たが。科学にとって重要なことは、その使用範囲を理解することであろう。でなければ、「科学は時おり、嘘を付く」ことになる。

 「科学は事実に対して正直でなければならない。」と、つい考えてしまうことが多いですよね、事実を知れば知るほどに。

 
 私は、気功術を習い始めていた。

 数ヶ月、過ぎた頃だろうか。

 「どの位(期間)で、出来るようになれますか?」と、先生に尋ねてみた。

 「そう、今生では無理だね。来世かな?」と、大真面目で答える先生。

 私の心の声!~「今使う技術としての気功、来世まで待つ客がいるのか?」私はそれ以上の質問を、する気にはならなかった。そもそも、気功に対する考えというか、物事に対する取り組みのスタンスが違っていたのであろう。

 一概に、気功と言っても、自分は手技療法家としてプロレベルの気の技術を必要と考えていた。たとえそのレベルの流派ではなくとも、プロとしての気功の入り口に立つだけでも良かった。右も左も何一つ知らない世界、それだけでも良かったのだが。

 プロの世界から見ると、世間的にどれほどすごい気功術を見せられたとしても、何の価値もないのだ。ある生徒は、スプーンが曲がったと言って自慢げに喜んでいたが、私には何の価値も意味も感じることはない。そう、普通の鉄板が何かのエネルギーでスプーンに変わったなら、それはすごいことだと思う。

 その道場には一つだけすごい特別の世界があった。精神世界とでも表現するのがよいのだろうか、見えない世界の出来事とその取扱い。ここでは詳しくは紹介しないが、本当にあったのだ。

 世間的には曖昧な世界。人それぞれが都合の良い理解をしている、見えないだけに、何を言っても通用するような勘違いも、起こしかねない世界でもある。逆に、本物が紛れ込んでも、誰一人と気づく者はいない。  

 しかしながら、この見えない世界があるかないかは、人が理解する以上に重要だ。

 見えない世界の是非ほど、人の社会に影響を及ぼすものはない。何も知らない人間ほど無責任な発言をして人を惑わす。そう、あたかも自分は「偉い人間」という心が見える。そんな曖昧な理解から、事実という未来への入り口「事実は小説より奇なり」の始まり。

 

≪道場通い≫

 道場の気功の内容は大きく分けると、気功体操と呼吸法・整体もどきを交えた気功調整・精神世界の波動調整の3部構成であった。先生は、わずかではあるが実際に気で人を動かすことも出来ていた。また二人向かい合って座り、気で相手を動かす、合気道のような練習もしていた。先生も、師範の人たちも、他の生徒たちも「コツ」は特に知らないようだった。ただ「こんな感じ!」と試してくれる。多分、多くの方は「分からない」と言うであろう微妙な感覚。気で動いているような違うような?一方、合気モドキも相手が合わさなければ何の効果もないようだ。

 最初に皆で体操をする、いわば準備運動なのだろうか。体操は呼吸を止めたり、伸ばしたりと変化を持たせていた。腹式呼吸や胸式呼吸などをジュン式呼吸とかギャク式呼吸などと、いろいろな名前を使って呼んでいたようだ。その違いや違いのメカニズム、効果なども分からずに真似をするだけ。これが第一部だ。

 第二部は気功で体の調整をする日と、精神世界的な波動調整の日に分かれていた。残念なことに自分の整体で使える技術は見つからない。でも、精神世界に関しては、文字では紹介出来ないような、衝撃的な目を見張る内容があった。この、知らなかった数多くの事実は、私の長年の「疑問の穴を埋め尽くす」かのような、重要な意味を持っていた。何十年も悶々と過ごしてきた人生。何もかもが理不尽。多分人はこのことを「苦労」と呼ぶのだろう。でも理不尽さと苦労は違うような気がするが、答えの見つからないまま、多くの日々が過ぎていた。

 私は20代の頃から自己流の手技療法を手がけていた。お金はいただいたことは無かったが腰痛であればほとんど治せるようになっていた。そんな私に手技療法家になるための、一つの転機が近づいていた。腰痛の治療技術だけではプロにはなれない、そこである流派の整体術を習った。整体術は残念ながらどなたにも有効ですよとは言い難かった。正直なところ効果が少ない人や、危ない人すらいると感じていた。自分流の整体術と習った整体術、その隙間を埋める微妙な世界に通用するものを探していた。それが気功術の世界に存在していると思う、漠然とした感覚を感じていた。だが、それは「教えられて身に付ける気功術の世界」にあるのではなく、自分自身に内在する「世界観」のようなものと出合うのでした。その答えは他者にあるのではなく、自分自身の生きる意味に、すべての答えが結び付いたのだった。

 実は、一年ほど通った気功の道場。習っている間は何も出来なかった。と言うか?何一つ気の操作に関わることは、教えられてはいなかったようだ。習ったことは、「気の形の世界」、つまり言葉で説明し、言葉で納得する。言い換えれば、「言葉の違いでどうとでもなる世界」。確かに目の前で見ることも、教えられることも知らない世界だ。でも、実際にどう使うのか。宗教でも始めるのであればよいが、現実の世界では使いようのない「お遊びのような世界」でもあった。

 治療家としては、気の操作を何一つ出来ないまま気功の道場を辞めた。辞めた途端に、気功を使う必要性が生まれたのだから面白いものだ。その時は、自分なりの考えで気を扱っていた。それでも始めの頃は、特に気の何かを、他者に見せるわけでもないので、目的さえクリアしていれば形はどうでも良かった。しかし、皮肉なことに、半年も過ぎ去ろうとしていた時、そののんびりした状況は一変したのだ。

 何と自分で気功教室を始めなければいけない状況に変わっていた。運命とは「皮肉でもあり、面白くもある」とは、よく言ったものだ。私の個人的こだわりだが、自分が出来ないことを、それらしく教えることは出来なかった自分。「適当」など、もってのほか。

 出来ないことも、その“必要に答えようとする集中心の力”で、本当に気のエネルギーで人を動かせるようにしたのだ。しかも、その時はまさに「奇跡の瞬間」とでも、言えるような出来事。まさに、「必要は発明の母」を、こんな形で実践していた。

 私は、分からないことを知らぬまま通り過ぎてはいけない世代。ブラックボックスの中身と仕組みが理解出来ないと立ち止まってしまう世代。気功の世界には、まさに湧き上がる「疑問だらけの」自分がいる。分からないことを分析せずに、適当な言葉を当てはめる真似は出来ない不器用さも手伝い、とうとう、「気の秘密の扉」を開けてしまった。何千年も、誰一人と開くことは無かった「気の秘密の扉」。役立てるのはこれからの人。

 

          ~つづく

~メモ~小説:気の秘密

≪気功の道場へ≫

(恐ろしすぎた見学)(振り向いた見えない人)(神?仏?)(精神世界への入り口)(ムー語?で会話する人達~「黒板に書かれたムー語?」)

(周天法・拍手・気あて・伊吹・身体の調整・気功体操・精神世界・呼吸法)

(目覚め始めた自分の気の世界)(神奈川の気功セミナー)(冷えてしまった気の質)(変わり始めた言動)(生まれたこだわり)(わかれが生み出すスタート)

≪職場に現れた超能力者≫

(ずば抜けた透視能力)(さにわ)(見えない人々)(特別な日差し)(乗り越え続けた奇跡の工場)(伊吹・気あて)(変わり始めた言葉~自閉症の職員)(不幸な超能力者)